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ご挨拶

株式会社タマプリント

株式会社タマプリントは、自主出版・記念誌・書籍、雑誌・参考書・児童書などの出版印刷物の
企画・デザイン・製版・製本・加工まで印刷物の一貫生産を行っております。

創業して45年が経ちますが、お客様のご注文・お問合せに対しては事務的な対応は取らずご要望に応じ、
その時々で精いっぱいのご支援をさせて頂いております。

田中英一郎プロフィール

 1962年、昭和37年11月14日青梅市長淵(青梅市立総合病院)で、家業の機屋(織物業)の長男として生まれました。しかしこのころ青梅の機織りは衰退の一途をたどっており、我が家も機屋から日本ケミカルコンデンサーの下請け屋に転業したばかりでした。そのため生活は苦しく、またこの年の1月には祖父が病死しており、家庭内はとても暗いものだったそうです。そこへ後取りの男の子が誕生し、まるで救世主が現れたようだったのでしょう、大事に育てられました。特に明治生まれの祖母の寵愛は尋常ではなく、厳しくも優しく見守られながら幼少期を過ごしました。

 両親には家業が忙しく構ってもらえませんでした。いたずらっ子でしたので、毎日暗くなるまで外で遊んでいました。保育園児のころ、暗くなっても帰らなかったため戸閉をくらい、軒下で泣いていたのを家に入れてくれたのも祖母でした。こんな調子ですから、小学生になっても勉強などせず成績はアヒルの行列と電信柱が時々というところでした。特にハーモニカと漢字が苦手で、IT社会になってなおさら漢字が書けなくなってしまいました。もっとも印刷屋が言うことではないのですが。小学6年生の時一度だけ国語で「5」(五段階評価)をもらったことがありました。たまたまテストでいい点を取れたからです。でもそのテストには漢字の問題が無かったのです。しばらくして担任の先生に言われたことは、「おまえの書いた日直帳はなんだ!ひらがなばかりで、たまにある漢字ば間違いばかりだぞ!5をつけるんじゃなかった!」 でした。

 そんな小学生を卒業し、青梅市立第二中学校に入学したとき、息子の学力を案じた母から塾に通うように言われました。この塾の初日に数学のクイズをしました。これがとても面白く、翌日学校で友達相手に得意になってクイズを出していました。これで少しは勉強するようになったようです。1回だけですがテストの成績が学年10位になったこともありました。そのまま頑張ればよかったのですが、すぐにいい気になる性格ですので、その後は油断の連続、中の下か下の上くらいの成績でした。それでも都立昭和高校に滑り込みました。

 小学、中学、高校を通じて国語の時間はひたすら下を向いて、貝のように黙ってじっとしていました。先生に指されたくなかったのです。音読が出来ないのです。小学生のころ立って教科書を読むと、漢字が読めず、つっかえ、つっかえでよく笑われました。それ以来音読になると目はかすみ、声は震えクラス中の笑いものになってしまいます。いまだに本を読むのは苦手で遅いです。

 このころ家業の方は、受注先工場の移転などで仕事が減ってしまい、困った父は1970年(昭和45年)株式会社タマプリントを多くの友人の協力のもと創業しました。私は8歳小学2年生でした。好景気により公共工事が盛んにおこなわれていましたので、建設図面の複写いわゆる青写真をとる会社を始めたのです。青梅市では最初だったようです。やがて製造業(メーカー)からの複写の仕事と共に印刷の仕事も受注するようになりました。このころは活字を拾う活版印刷から和文タイプライターによるオフセット印刷への移行期でした。母が和文タイプに精通しておりましたので、印刷業への転身が可能でした。しかし元々は機屋ですから、畑違いも甚だしく、苦労も多かったようです。このころはワープロもパソコンもないころでしたので、印刷の需要は豊富で、特に官公庁や学校関係の仕事を多く受注していました。その後、人材、技術、設備を整えつつ現在に至っています。

では、なぜ私が株式会社タマプリントをやっているのでしょうか。家業を継いだからでしょ。

いえいえ違います。高校生のとき進路を決める際、自営業は休みも少なく忙しいだけだから、家業だけは継ぎたくないと思っていました。そのころ原子力は夢のエネルギーといわれていましたので、安易に原子力工学科に行きたいと担任の先生に言ったところ、お前は広島で何を見てきたのかと目の前で泣かれてしまいました。修学旅行で原爆記念館に行ったのです。爆弾と発電は違う。俺が勉強して技術者になり日本を豊かにするんだ!と言ったところで、説得力はありませんでした。

その時の久保先生には本当にお世話になりました。

ほかに進路が見つからなかったので、家業を継がなければいいんだからと思い、嫌いな訳ではないので印刷技術の方へ進もうと思い、東京工芸大学画像工学科へ進学しました。下宿生活をしながらよく遊んだ4年間でした。大学の友人の半数以上は印刷会社またはその関連会社の社長の息子でした。そのほとんどがそのままお父さんの会社に入りました。そんな中私は就活しました。家業があるからすぐ辞めるだろうと5・6社で門前払いされました。研究室の教授のコネで三晃印刷株式会社へ入社しました。妻とはここで知り合いました。

 入社した会社は、大手出版社やメーカーを顧客にもち、営業と現場をつなぐ業務部門で忙しい毎日を過ごしました。会社に泊まり込みで業務をこなすこともありました。入社3年目のころ、なぜ自分はこの仕事をしているのだろうかと悩んでいました。同僚や先輩とよくお酒を飲みに行くようになり、家に帰れなくなることもしばしばありました。(お店から出勤)

 そんな生活をしていた時、ふと思い出したのです。小学4年生の時、私が書いた作文が選ばれて文集に載ったのです。あんなに苦手だった(今もでしょ 笑)国語でです。内容は、トランジスターラジオの自作キットを作ったことを書きました。くめちゃくちゃな文章と図などを提出したと思います。当時の担任の先生がうまくまとめてくれたのです。出来上がった文集はきれいな図版と、なぜラジオから音楽や声が出るのかを分かりやすく、自分が言いたかったことがちゃんと書いてありました。とてもうれしかったのです。

 僕もこの先生のようになりたい! と思っていたことを、思い出したのです。

そして、誰かのあいまいなイメージをその人に代わって表現する人になろう! と決心しました。進行管理などをする部門で営業と現場の板ばさみでストレスを感じていましたが、その後は営業担当に頼んでお客様に合わせてもらったり、現場の人と一緒に作業したり、とても仕事が楽しくなっていきました。

 このころから父の難聴が気になるようになりました。元機屋の職業病なのか老いなのか、話をしていても何度も聞き直すことが多くなり、主に外交をしていた父の仕事にも支障をきたすようになっていました。また、仕事のやり方も古く行き詰っていたように見えました。このころ付き合っていた現在の妻に「一緒に印刷屋をやってもいいよ」と背中を押されて、結婚を機にタマプリントに入社することにしました。

 以来29年間「お客様のイメージを現実に」をモットーにデザイン・印刷業を営んでおります。

 長文にお付き合いいただきありがとうございました。

2018年1月

田中英一郎

会社概要

社名 株式会社 タマプリント
住所 〒198-0052
東京都青梅市長淵8-198-6
代表者 田中 英一郎
設立 昭和45年 12月23日
資本金 1,000万円
事業内容 1、複写部
陽画焼付・電子複写・マイクロ写真・トレース・
CAD機械・立体製図・光ディスク入力など。

2、印刷部
自主出版・記念誌・書籍、雑誌・参考書・児童書などの
出版印刷物の企画・デザイン・製版・製本・加工まで印刷物の一環生産。
取引銀行 あさひ銀行 青梅支店
青梅信用金庫 中町支店
西武信用金庫 千ヶ瀬支店
2017年8月現在

アクセス

所在地 〒198-0052
東京都青梅市長淵8-198-6
TEL 0428-22-2911
FAX 0428-23-3085
営業時間 8:30 ~ 18:00
定休日 土日・祝日

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